Nameless: sandro5's blog

徒然なるままに日暮らし、というわけでもない。

怒ったら敗北であること。あとポピュラーなゾンビについて

・怒るとは、無知であるということか。対象に対して、世界に対して、何より己について、知るべきことを知らない、理解すべきことを理解できないでいるからこそ、怒りの衝動に流されてしまう。

・そもそも怒りに翻弄されてしまうと知性が低下する。怒ったら負け、というのは正しい。

 

・ゾンビものは、なぜこんなにも人気があるのか。なぜこんなにも無意味に思えるテーマが何度も何度も小説やテレビや漫画や映画にとりげられて、それなりに売れ続けているのか、ずっと不思議だった。もしかしたらそれは、致死性の高い伝染病のメタファーなんじゃないか。ペスト、スペインかぜ、エボラ。遺伝子に刻まれた恐怖とでもいうのか。ゾンビというかたちで人の感情を強く刺激するのかもしれない。なるほど死の恐怖とは、人が存在する限り不滅のテーマといえるだろうし。

 

不自然な自然

知覚するこの世界が作りものだという、私自身という創造者による。

ガザ地区イスラエル軍が侵攻したといっても、ウクライナ親ロ派による地対空ミサイルでマレーシア航空機が撃墜されたと言っても、僕自身はニュースでしか知らない。直接見たわけではない。実際に見に行けば、そういう事物も作られるのだろうが、今この時点では創造するのにもさほど大きなエネルギーはいらない。ただニュース映像と音声を創り出せば事足りる。

朝、妻が僕を送り出してのち、僕の視界、知覚可能な範囲から外れた途端、妻も我が家も波動に変わる。物質ではなくなる。夜、帰宅するとその瞬間に創造物は再構成され、一貫性を持って、僕の眼前に現れる。妻も我が家も。まるで僕がいなかった時にも物事は普通に動いて、流れているかのように見せて。

文字に起こすとなおのこと奇妙な話だ。とても人に言えたものではない、こんな考え方は。とはいえどう思われるかを気にしている人々も僕自身の創造物に過ぎないわけだが。創造物に過ぎないと言ってもそれは僕の一面である。すぎない、というものではない、彼らは僕自身でもある。大切な損じに変わりはない。ただ、僕が知覚できないものは瞬時に波動に変わるというだけの話。
たまに一貫性が破綻することがある。子供時代に多かった。近所の友人から借りた本(怪奇オール百科)をたしかに返した。なのにその後またうちで見つけた。その本を二度、返した。初めて買ってもらったコミック本(人造人間キャシャーン)が2冊出てきた。
それに、そういえば確かに不自然だよなという事実、月の自転速度と公転速度が同じ。月が地球のサイズに比して大き過ぎる。地球から見る月の位置が絶妙であることから日食の時、それぞれのサイズがジャストフィットすること。
不自然な事象の中に作為的なもの、何者かの意図を感じる。つまりこの世界は自然にできた、偶然の所産ではなく、何らかの知性による介入を経て形作られているということ、この気づき。
こんなことを改めて考えるようになったのは、これらの本を読んだからである。

意識への回帰
夢見の技法
隠れていた宇宙
ザ・マネーゲームから脱出する法
ビジネスゲームから自由になる法
投影された宇宙

 

エスター、バスルーム、ホステル

エスター (Orphan) を Amazon instant video で観た。クーポンをもらったので。Aryana Engineer がかわいい。サイコパスの映画。この娘、何かが変だ、というキャッチコピーにずっと魅かれていたが、そういう変さだとは思わなかった。

昨日はMadrid 1987(バスルーム)を観た。これはくどかった、これはだめだ。ただヒロイン(といっていいものかどうか)がかわいかったから見れた、それだけの映画だった。後半は全部飛ばした。

Amazon instant videoとはどういうものなのか、知ることができた。Standard画質で観る限り問題はなかったが、HDだと途中でデータ受信が間に合わなくなった。Jcomでは荷が重くなっている。光が必要なのだろうかこれからは。

なんとなくYoutubeでHostelを観た。前半1時間。精神に悪影響あるのではないかと、あと夕食だったので切り上げた。ヨーロッパのスナッフマニアの餌食にされる映画だそうだ。タランティーノスロバキア。3まで出ている。売れれば成功ならば、成功した映画なのだろう。

ひとのサディスティックな性向を刺激する悪趣味な映画。あるいは人間の本質が表れているのか。世界中で売れているのだから。

愚民政策、統治のツールとしての宗教

葬儀、四十九日の法要と帰省して思った。

死者は、遺族がこうまでしなければ成仏もかなわないのだろうか、と。

で、読んだ本の覚書。

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望は激烈な意志の男である。

徹底的な武断派であり、革命後かれの思想は愚民政策となってあらわれた。

商をほろぼしたのは昌の子の発だが、そのとき敗戦国の商の人民をどうすべきかと問われた望は、――みな殺しになさったらいかがですか(『説苑』)、とこたえているし、また発が受王を伐った挙兵が下剋上であることを認め、こののち下剋上の風潮がさかんになりはしないかと気に病んで望に問うたとき、彼は、――天下を久しく保とうとするなら、道義なぞまったく無用のことでして、煩擾の教えで民をしばり、楽しみだけを与えてその家財を貧しくさせ、族党を少数にしてしまうことです(『淮南子』)、とこたえている。(王家の風日 p343)

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上記は商周革命をテーマとした宮城谷昌光の小説だが、「煩擾の教えで民をしばり」、のくだりが気になった。

為政者が統治のために宗教を利用する、というのは自然な流れだろう、とも思った。