Nameless: sandro5's blog

徒然なるままに日暮らし、というわけでもない。

愚民政策、統治のツールとしての宗教

葬儀、四十九日の法要と帰省して思った。

死者は、遺族がこうまでしなければ成仏もかなわないのだろうか、と。

で、読んだ本の覚書。

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望は激烈な意志の男である。

徹底的な武断派であり、革命後かれの思想は愚民政策となってあらわれた。

商をほろぼしたのは昌の子の発だが、そのとき敗戦国の商の人民をどうすべきかと問われた望は、――みな殺しになさったらいかがですか(『説苑』)、とこたえているし、また発が受王を伐った挙兵が下剋上であることを認め、こののち下剋上の風潮がさかんになりはしないかと気に病んで望に問うたとき、彼は、――天下を久しく保とうとするなら、道義なぞまったく無用のことでして、煩擾の教えで民をしばり、楽しみだけを与えてその家財を貧しくさせ、族党を少数にしてしまうことです(『淮南子』)、とこたえている。(王家の風日 p343)

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上記は商周革命をテーマとした宮城谷昌光の小説だが、「煩擾の教えで民をしばり」、のくだりが気になった。

為政者が統治のために宗教を利用する、というのは自然な流れだろう、とも思った。