Nameless: sandro5's blog

徒然なるままに日暮らし、というわけでもない。

我々は何者なのかという問いと答えについて

我々は何者なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、というタイトルの画がある。ゴーギャンが描いたもので、ボストン美術館に収蔵されてある。ゴーギャンの画は正直、よくわからないのだがこのタイトルは好きである。

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我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか/D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons-nous?, ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン/Eugene Henri Paul Gauguin

この問いに多くの人が答えらしきものを提示している。いわく、神が創った、あるいは宇宙が創った。その根底には愛がある。人という種は無限の愛を受けて創造されたものであり、今ここにこうして生きているのは己の魂を磨き、高めるためなのだと。だとしたらまあ、ハッピーな話である。しかしこの答えには違和感が付きまとうのも事実。
愛に包まれた存在にしては、人間世界には悲惨な出来事が多すぎないか。そういえばキリスト教は人を神の奴隷として位置付けている。
こんな答えもあるのだと先日知った。人とは農作物や家畜のようなものである。人は感情を通じてある種のエネルギーを生産しており、人よりも上位に位置する存在が意図的に品種改良を施し、人が感情の発露を通じて生産するエネルギーを食物として、飲料として、はたまた麻薬的なものとして摂取し喜んでいる。人は誰かの無償の愛によって生み育まれたものではなく、打算のもとに創られた。ある種のエネルギーを収穫するために、命や意識が与えられた。人と、人が想像する神との間にあるのはギブアンドテイクの関係である。この答えは実にしっくりくる。説得力があるし納得できる。
いまはこの前提で物事を考えるようになった。